宗教アカウンタント通信No.122


〇迷いなく神仏に手を合わせる人たち


〇迷いなく神仏に手を合わせる人たち

こちらの「宗教法人アカウンタント通信」に掲載している拙稿も、通算120号を超えることとなりました。 月次の発行ですので、ちょうど10年を経過したことになります。 毎回の宗教法人アカウンタント養成講座の講師を務めながら、 こちらの原稿ではすでに宗教法人アカウンタントとなられた方に向け、折々の社会的出来事を絡め 「宗教法人において今、何が問題なのか」「宗教法人経営者は今、何を考えているのか」について私見を述べてまいりました。

拙い文章ではありますが、皆様が宗教法人の現状を知るうえで少しでもお役に立てていれば幸いです。 今後ともご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。

さて、年末年始に読んだ本の中で最も印象に残ったのが、作家の村薫氏と禅僧の南直哉氏の共著による 「生死の覚悟」という新書の中で村氏が述べている以下の言葉でした。

「社会を眺めましても、神社仏閣への参拝やおみくじなど、神秘的なものや宗教的なものの受容は、かえって進んでいるように思います。 (中略)いまや、近代理性が後退することで、宗教への理解も後退するという事態に立ち至っているのではないでしょうか。 昔から日本人は神仏に無条件に手を合わせてきたのですしもともと近代以降の無宗教や政教分離の方が 特殊なのだという見方もできないわけではありませんが、それにしてもおよそ仏教にも神道にも 無縁のところで若い人々が何の迷いもなく神仏に手を合わせたり、願をかけたりする。抹香臭いものに背を向けるどころか、 宗教に一片の疑いも抱いていない日本人の増加を、私たちはどう見たらいいのでしょう。 これも社会状況の変化に伴う、実存についての問いや不安のあらわれなのでしょうか。」

これに対する南氏の答えは以下の通りです。

「若い人も中高年もそうですが、自分であることそれ自体を重荷であると感じている人が増えていることと関係しているように思います。 (中略)もう自分でありたくないという人が少なからずいるのです。つまり、自己から逃走したいという人がいる」

つまり、思索に耽って理性を磨くことをせず、そこにあるものに疑いを持つことをせず、神仏に手を合わせる人が増えている。 その背景には、「自分とはなにか、ということを突き詰めたくない。だから何も考えず、とりあえず手を合わせて祈っておこう」という思いがある。 といったところでしょうか。

筆者は「そもそも日本の宗教は教義への信奉よりも民間習俗に根差しているものであり、人々が深く考えることもなく 神仏に手を合わせることは、決して悪いことではない」と思っていたので、両氏のやり取りには衝撃を受けました。 拙寺にも御朱印目的だけで御来寺される方がおられますが、ありがたく受け止め、その方々にはかならずご本尊や山内諸仏のご説明をしております。 興味を持っていただけそうな方には我が宗派の教義の説明もいたします。

村氏は仏教に関する評論や名僧を主人公にした小説を多数発表しており、仏教や宗教には造詣の深い方ですが、 それだけに「市井の人々が『考えること』あるいは『疑うこと』を大切にしないと社会の進歩が止まる。大変なことになる」という思いがあふれ出ているのだと思います。 そのこと自体はまったくもって指摘の通りです。

そうはいっても、日ごろの生活に追われている中で、時間をかけて「考えること」「疑うこと」を実践することは決して容易ではありません。 我々宗教者がなすべきは、「今、手を合わせておられる方に、さらに仏教や宗教に興味を持っていただけるよう、できるだけわかりやすくお話をする」ということではないかと考えています。 仏教の基本は対機説法です。お相手の方の状況や悩み、問題意識をしっかり聞いたうえで、何かを感じていただけるようお話をしていきたいと思います。


(宗教法人アカウンタント養成講座 講師 高橋 泰源)