宗教アカウンタント通信No.125


〇弘法大師の死生観(私見)


〇弘法大師の死生観(私見)

「仏教の世界では、死はどのようにとらえられるのですか?」「ご住職の宗派では、死をどのように解釈しますか?」 最近、このようなご質問を受けることが多くなりました。 メディアにおいても「死」を扱うことがタブーではなくなり、さまざまな議論が聞かれるようになりました。

私は真言宗の僧侶です。 我が宗派の開祖である弘法大師が、「死」に関して語っている言葉をふたつ、ご紹介します。

「衣を観て珠(なみだ)落ち、人を思うて?生(こうせい)す」 「強壮は今朝 病死は明夕なり」

前者は、弘法大師が、一緒に唐に渉るなど親交の深かった藤中納言が亡くなった際に寄せた供養の文、 そして後者は、「教王経」という経典を弘法大師が解説した「教王経開題」という書物に書かれている言葉です。 それそれの意味するおおよそのところは、以下の通りです。

「藤中納言様の衣を見ては、涙が出る。お姿を思い出せば、魚の骨が喉につかえるような悲しみに襲われる」 「人生を一日に例えるなら、朝は元気でも、明日の夕べには死がやってくる」

どのように思われたでしょうか。 さらにおおまかに意訳させていただくなら、それぞれこんなところでしょうか。 「近しい人がなくなるということは、どんなに悲しいことでしょう」 「人の一生とは、あっけないものである」

ご存じの方も多いと思いますが、 仏教の根本思想は「生老病死」プラス 愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること 怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと 求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

これらを合わせた「四苦八苦」、つまり、「自分の力ではどうにもならないこと」を受け入れよう、 というものです。

「強壮は今朝 病死は明夕なり」 という弘法大師の言葉は、まさに「生老病死が自分ではどうにもならない」というブッダの教えを示している、といえましょう。

しかしながら弘法大師は一方において、身近な人の喪失は悲しいものであると、実に人間的にお気持ちを表明されている。 凡夫であるわれわれも、自分の力ではどうにもならないことを受け入れる一方で、悲しむべき時は悲しむ。 亡くなった方を偲び、在りし日の姿に思いをはせ、ご供養する。こういった心構えで「死」というものを捉えていただければと、思います。

あくまで筆者の見解ですが、こういう考え方もあるとご理解いただけますと幸いです。


(宗教法人アカウンタント養成講座 講師 高橋 泰源)