宗教アカウンタント通信No.128


〇平常心


〇平常心

東京オリンピック・パラリンピックが開催中です。コロナ禍、そして東京は緊急事態宣言中ということで、 賛否両論渦巻く中での開催となりましたが、世界から集まったトップアスリートたちのパフォーマンスは 連日見る者に驚嘆と感動をもたらしてくれます。

筆者は今回、直接的に相手と対峙せず、自己を高めることで結果を出すことを求められる、
体操、スケートボード、アーチェリーなどの競技に、特に注目しています。 それらの競技の参加者、とりわけ前評判の高かった選手たちは「普段通りのパフォーマンスをする」 ことを意識し、それができた選手はきちんと結果を出しました。

一方において、「メンタルヘルスを守るため」という理由で競技を棄権した米国の体操選手もいました。 「こころの不調」が「からだの不調」と同列に認識されたことに大きな意義を感じます。 一昔前なら内外から非難の嵐にさらされていたところですが、海外のメディアも含め彼女に同情的、 好意的な論評が多く、「勝利至上主義」がいよいよひとつの曲がり角を迎えたのではないか、という気がします。

ところで、「普段通りのパフォーマンス」をするためには何が必要か。 言うまでもなく「平常心を保つ」ことに尽きます。 実は、仏教にも「平常心」という言葉はあります。

しかしながら読み方は「びょうじょうしん」で、 その意味するところも一般的な「平常心」とは微妙に異なります。

「平常心(びょうじょうしん)」は、宋代の禅匠、趙州(じょうしゅう)和尚と師の南泉普願 (なんせんふがん)禅師の問答に由来します。おおよそ、以下のようなやりとりです。

趙州「仏道の心は、いかに追い求めればよいのでしょうか」 南泉普願「日常的な心(すなわち平常心)が仏道の核心である」 趙州「では、その日常的な心を追い求めればよいのでしょうか」 南泉普願「いや、それを求めることを考えたら、かえってそこから外れてしまう」

不安になっている心も含め、自分である。それを否定することにこだわって心から追い出すことを してはならない。「不安になっている自分、それもまた自分の姿である」と素直に認めること、 これこそが仏の悟りの道である、といったほどの意味です。

トップアスリートであれ、我々凡夫であれ、過去のことを悔んだり、先のことに不安を覚えたり、 といった心持を抱くことはあると思います。そういったときに、「あってはならないことだった」 「失敗したらどうしよう」と悩むだけでなく、「それも含めて自分なんだ」と俯瞰的な視野で眺めて、 その状況を大きく受け止めることができれば、心の安寧に向けて一つ階段を上ったことになる、 と言えるのではないでしょうか。


(宗教法人アカウンタント養成講座 講師 高橋 泰源)