宗教アカウンタント通信No.130〇森を見て・・・〇森を見て・・・ 9月中旬の朝日新聞に、こんな記事が載りました。要約します。 イヤド・シャラビさん(34)は、イスラエル北部のアラブの町出身。生まれつき耳が聴こえない。12歳のころ、親戚の結婚式で屋根から落ち、首から下に重い障害が残った。 自分の状況に絶望する中で連れて行かれたプールでのリハビリ。そこでユダヤ系イスラエル人のコーチに「水に浮く姿勢が良い」と才能を見いだされた。 練習を重ね、数年で国際大会に出場するようになった。イスラエル国旗の描かれたスイムキャップをかぶるのに抵抗があったが、「君はアラブ人かユダヤ人かではなく、イスラエルを代表している」というコーチの言葉に目が覚めた。アラブ系もユダヤ系も分け隔てなく取り組む競泳チームの仲間と家族のように過ごす中で「自分の国を代表する」という誇りが芽生えた。 4大会連続の出場となったパラリンピック東京大会で、彼は男子50メートルと100メートルの背泳ぎ(運動機能障害S1)で2冠に輝き、表彰台に上がった。イスラエルの人口の約2割を占めるアラブ系として、五輪・パラリンピックを通じて初のメダリストとなった歴史的な瞬間だった。帯同した父親も、コーチも、みな泣きながら、抱き合って喜びを分かち合った。 祖国をめぐる紛争は今も続く。だが彼は「この金メダルが私たちの違いではなく人間性や結束に目を向けるきっかけになればと、願っている」と語る。 筆者はこの記事を読みながら、涙を抑えることができませんでした。宗教や世界史、世界地誌について学べば学ぶほど、「1000年を越えて対立するアラブとイスラエルの溝は根深い」「一神教の教徒は概して排他的であり、他教に対して寛容の精神が皆無である」「イスラエルの中では長年も内戦が続き、住民たちはいがみあっている」こういった、俯瞰的に事象を眺め、わかりやすい言葉でまとめ、理解した気になっていた自らを恥じました。 確かに宗教は、人々が生きていく上のよりどころ、背もたれのようなもので、安心感や道しるべを与えてくれます。しかしながら、その前に人は、しっかりと自分の意志で生き、働き、暮らしています。宗教が介在する以前にそこには「他者に対する慈しみの精神」「困っている人には手を差し伸べるこころ」といったものがあり、その心持こそが人類を今まで生き長らえさせてきたのでは、と改めて思いました。 木を見る前に俯瞰で森ばかり見て、一人ひとりのおこころに思いをはせることが欠けていたのでは、とも感じます。「日本人」とか「中国人」とかいう名前の人は居ないのです。 穏やかならざる世相が続きますが、その方の属性によって構えを変えることなく、ご縁のあるすべての方々に対して、日常のお付き合いを今まで以上に丁寧に行っていきたい。筆者はそのように考えています。(宗教法人アカウンタント養成講座 講師 高橋 泰源)
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