宗教アカウンタント通信No.133〇年頭にあたって〇年頭にあたって 謹んで初春のお慶びを申し上げます。 相変わらず、快晴とは言い難い世情ではありますが、日々を丁寧に、周囲の方々へのお気遣いを忘れずに過ごしていきたいものです。 拙寺の新年は、3が日で年始の檀信徒様をお迎えした後、昨年暮れに亡くなった檀家さんのご葬儀を4日に執り行いました。 また、暮れから新年にかけて、墓参に見えた方と何人かお話をしたのですが、お子さんがその上司ともども新型コロナに感染し上司が命を落とされた方、奥様が突然脳梗塞で動けなくなりご家族を認識しなくなってしまった方など、それぞれが様々なご事情を抱えておられ、なんとも言えない気持ちになりました。 多少なりともお気持ち平らかになっていただくお手伝いができればと、精一杯のお言葉をおかけすることを心掛けました。 さて、先日、愛知県にお寺がある、さる浄土真宗系の僧侶のお話を聞く機会がありました。 そこでお聞きしたのが、「(三回忌、七回忌などの)年回法要はだいたい、休憩をはさみながら2時間くらいかかります」という、驚きのお言葉でした。北海道の同じ真宗の僧侶さんは「うちは1時間くらいかな」と。 筆者は埼玉県南部にある真言宗の寺院の住職をしておりますが、ご法事はご法話と読経を含め30分が目安です。誰に言われたわけでもないのですが、先代の住職(父親)や近隣の同じ宗派の住職たちも30分を目安でやっていて、正直、他の宗派も似たようなものかと思っておりました。 しかしながら、真宗さんの僧侶の方が「浄土三部経」と呼ばれる長いお経を読まれることが多く、その場合結構なお時間を取ることを今回初めて知り、衝撃を受け、自らの知識の浅薄を恥じ、「30分」という法要の時間、そしてその中で、冒頭の約5分という法話の時間が十分なのか、ご法事の目的や意味、故人さまの偉業をふりかえるのにふさわしい長さなのか、を改めて考えさせられました。 もちろん、法要の時間は長ければよい、というものでもないと思います。特に高齢の檀家さんなど、お経を聴いているだけでも体力を使いますし、真宗さんの御法要も総じて時間短縮の方向に向かっているとも聞きます。 しかしながら、ご法事が檀信徒さんと1対1で接するきわめて貴重な機会であると考えると、判で押したような30分のご法要、は決して檀信徒さんに寄り添う姿とはとても言えないものだと、自らを省みました。 同時に、時間だけの問題ではなく、檀信徒さんから「お坊さんがどんなことを唱えているのかわからない」としばしばご指摘いただく「お経の意味」も、少しずつお知らせしていきたいと思います。この点でも他宗の僧侶の方々に学ぶところ、大です。 コロナ禍という特殊事情はありますが、本堂の環境にも十分配慮した上で、今後のご法要のあるべき姿を模索していきたいと考えます。 ベストセラーにもなったイスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」に以下の一節があります。 「近代の社会秩序がまとまりを保てるのは、一つにはテクノロジーと科学研究の方法とに対する、ほとんど宗教的なまでの信奉が普及しているからだ。この信奉は絶対的な真理に対する信奉に、ある程度まで取って代わってしまった」 しかし、どれだけテクノロジーが「正しいもの」として世界中の人々に根付いても、世界の人々の心の中から宗教が消えているわけではありません。 宗教が社会において果たしうる役割はなにか。この大きなテーマについても考え続けていきたいと思います。(宗教法人アカウンタント養成講座 講師 高橋 泰源)
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