宗教法人アカウンタント通信No.134〇仏教と和歌〇仏教と和歌 皆様ご存じの通り、我が国に仏教を広めたのは聖徳太子、と言われております。太子はこのような歌を残されています。 ・家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ (家にいたならば妻の手を枕として休みもするだろうに、草を枕にする旅に出て、こうして行き倒れてしまっている旅人よ。なんとあわれなことだ) 生命のむなしさ、あっけなさ。いわゆる無常観を詠んだ歌です。 以来、1000年以上の間、直接的、あるいは間接的に、仏教の教えは和歌、もしくは短歌のかたちでも表現されてきました。普通に文章で示されるよりも、リズミカルな七五調で目や耳にするほうが、その教えも心に入ってこようというものです。 今月はそんな「仏教和歌」「仏教短歌」をご紹介いたします。 ・うつせみは数なき身なり山川のさやけき見つつ道を尋ねな(大伴家持) (この世に生きている人は、セミの抜け殻のように儚い身だ。山川の澄みきった様子を見ながら、仏の道を尋ねよう) こちらも、はかない身であるからこそ、仏道に精進しよう、という作者の思いが伝わってきます。 ・法性の室戸といえど我が住めば有為の浪風よせぬ日ぞなき(弘法大師空海) (永遠の真理の中にある室戸岬ではあるけれども、私(空海)が来てみれば(悟りの静かな世界とは裏腹に)無常の波風が押し寄せぬ日はない) 弘法大師でさえ、「心に波風が立っている」という悩みを抱えていた時もあったのです。我々凡夫に力を与えてくれる言葉ではないでしょうか。 ・ことはりは藻にすむ虫もへだてぬをわれからまよふ心なりけり(頓阿) (藻に住む虫にも仏性−仏になれる心‐があるのに、自分から迷ってしまう、それが人というものだ) 「生きとし生けるものすべてに仏性がある」これも仏教の根本原理です。そして、あまたの「生きとし生けるもの」の中で、迷い続けているもの、それが人です。迷っているからこそ、真理を求める修行を終生続けていく必要があるのでしょう。 ・「ドローンのカメラみたいにご主人は空から見守ってますよ」と住職(高橋泰源) NHK全国短歌大会で「秀作」の評価をいただいた拙歌です。東日本大震災の直後、仮設住宅に入っておられるご遺族との会話の中で思わず出た言葉を歌にしました。このような拙い言葉でも、被災地の方にはそれなりの納得感を持って受け入れていただいたことを思い出します。 葬式仏教という言葉がかつて流行し、現在はその言葉すら聞かれなくなったくらいに、一般生活者の方と仏教との接点は「葬儀」「法事」の儀式にほぼ限定されている、そんな時代になっています。現代のように、生きづらさを感じている人が決して少なくない世相において、仏教の真理、思い、訴えかけているものを伝えていくことは、我々僧侶の大きな責務であると、感じています。 そして、何事においてもそうなのですが、「何を言うか」と同じくらい「どのように言うか」は大事です。その抑揚やリズムによって、心地よく聞き手の耳に入って来るか否かはまったく変わってきます。住職としても、「言い方」「伝え方」について今一度省みてみようと思います。(宗教法人アカウンタント養成講座 講師 高橋 泰源)
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