宗教法人アカウンタント通信No.172〇納骨代行〇納骨代行 いささか天候不順の中でしたが、春のお彼岸も無事に終わり、拙寺の墓所はご先祖供養をされる方でにぎわいました。そんな中、こんな記事が3月上旬にある全国紙に掲載されました。 子どもへの暴言や虐待を繰り返してきた親とは「もうかかわりたくない」と考える40〜50代が、親の介護や葬儀、納骨を代行サービスに依頼する例が急増している。 仏事の代行といえばお盆やお彼岸の時期におけるお墓参りの代行、あるいは海洋散骨の際に散骨船への乗船を業者に任せる、あたりが思い当たるのですが、今回は介護、葬儀、納骨の代行という、なんともやるせない、衝撃的な内容でした。しかもその「代行を選ぶ理由」が多忙や病気・けがでなく、「親が憎いから」とは。 この国の家族制度は伝統的に「家族はそれぞれが敬い、尊重し、助け合い、慶事や弔事は責任を持って行い、喜び、悲しむものである」という暗黙の了解の上に成り立っているものだと思います。かつてこの国には「村八分」という言葉がありました。村の掟や秩序を乱す人が居ても「火事」と「葬儀」だけは村中で協力する風習でした。それほど葬儀は神聖なものであり、当家は責任を持って執り行うものであったわけです。まだ少数であるにせよ、その前提が崩れつつある、という事実は由々しい問題であると感じます。 もちろん、さまざまな家族のかたちがあることは自然であり、家族間の温度差もまたさまざまでしょう。離婚する夫婦も少なくなく、長らく音信不通の兄弟姉妹が居る、というご家族もおられます。ひとつ屋根の下に住み空間や時間を共有しているからこそ感情の齟齬も生まれるといった側面もあるでしょう。 「弔われるべき方」と「弔う方」の間にある感情は、第三者には決して推し量ることのできないものです。拙寺の檀家さんでも、奥様と娘さんがお世辞にも心を尽くしたとは言い難い方法でご主人のお弔いを行われたことがあり、言葉を失いましたが、よくよくお話を聞いてみると「やむを得ない部分もあるかな」と思わざるを得ない感想を持ちました。 それでも我々僧侶は、亡くなった方に引導を渡し、極楽浄土にお送りする義務を負っています。その務めをしっかりと話しながら、日常においては檀信徒さんのみならず、地域の方、あるいはさまざまなかたちで接するすべても皆様に、折に触れてご先祖供養の大切さを説いてまいりたいと思います。(宗教法人アカウンタント養成講座 講師 高橋 泰源)
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