宗教アカウンタント通信No.75

○「沈黙-サイレンス-」


○「沈黙-サイレンス-」

 先日、マーチン・スコセッシ監督の「沈黙-サイレンス-」を見てきました。 ご存知の通り、遠藤周作原作の小説「沈黙」の映画化です。スコセッシが映画 化を思い立ってから20年以上かかったという超・超大作ですが、2時間50 分という長さを感じさせない、すさまじい迫力の作品でした。

 17世紀のリスボン。イエズス会の宣教師ロドリゴとガルペは、日本で捕らえ られた恩師フェレイラが拷問を受け棄教したと知らされます。信じられない2 人は、フェレイラを追って長崎へ。いわゆる「隠れキリシタン」であるキリス ト教徒がひそかに信仰を実践している小さな村に着きます。彼らはあくまでキ リスト教を絶対的真理の象徴ととらえ、絶対に信仰を捨てません。ある時は穏 やかに説得され、またある時は拷問の果てに命を絶たれても、かれらは自らの 信じる道を貫き通します。

 映画の後半では、内なるイエスの啓示により断腸の思いで踏み絵を踏み、見 せかけの棄教に応じたロドリゴが長崎でフェレイラと再会を果たしますが、そ こで見たのはロドリゴが決して見たくなかった、村人たちの噂通りに変わり果 てたフェレイラの姿でした。

 筆者は真言宗の僧侶として仏教を中心にした宗教史を学び、その中で、「仏 教ほど異教に寛容な宗教はない」という特徴を何度も感じてきました。今回キ リスト教徒を正面から取り上げた作品を目にして、改めてふたつの宗教の大き な差異、基本的な立ち位置の違いを、リアリティを持って受け止めました。も ちろん優劣の問題ではありません。仏教は「こだわらない」「いい加減」とい う言葉に代表されるように、他者との関係性の中でスライムのごとくに自らの 価値を自在に変容させ、いかなる時や場所とも融和します。対してキリスト教 は絶対的な「神」を信仰の対象に据え、基本的に「変わること」を許さない。 すべての他者に対する自らの絶対的優位性を信じて疑わない。結果、当然のよ うに周囲との軋轢を生み、弾圧されますが、それでも彼らの思想は揺るがない。 その時その時で権力と上手に折り合いをつけてきた仏教側の系譜に連なる者か らすると、そのストイックさは信じがたくも、うらやましくもあります。反面、 自らの命を賭しても棄教(英語ではapostatize)しない、もはや狂信的という 表現さえあてはまりそうな「聞く耳持たなさ」は、二十年前にこの国を震撼さ せたカルト的新興宗教の姿、あるいは中東で争いを続けている一部の「自称イ スラム教徒」の姿を想起させ、関わりたくないという気持ちさえ浮かんできま す。実際には信仰を捨てる男たちも登場しますが、彼らの行動は棄教とは異な ります。それは小説でもこの映画でも、「転ぶ」という、なんとも観念的な動 詞で表現されます。詳しくは映画をご覧ください。

 もちろんこの映画から思うことは人それぞれ、百人百様でありましょうが、 今のところ今世紀を支配している「経済最優先主義」に対するブレーキ役を果 たす役割とポテンシャリティを「宗教」は持っていることは確かでしょう。ス コセッシ自身、「以前はこの作品の構想を語っても誰も関心を持たなかったが、 この十年で風向きは明らかに変わった」「神は我々を世界の狂気から切り離し てくれる」と語っています。ただしそのブレーキは時として激しく、その影響 で世界全体をあらぬ方向に傾けたり転覆させたりしてしまうこともあります。 宗教は人々の心に落ち着きをもたらし、世界平和に貢献する、などと軽々に語 れるものでなく、社会システムを崩壊させてしまう別の狂気をはらんでいる、 そんな感想を持ちました。最もマイルドな宗教であるはずの仏教でさえ、ミャ ンマーではイスラム教徒を迫害する過激派と称される一派まで現れています。 僧侶としての十分な自覚を持ち、心して日々の活動にあたりたいと思います。


(宗教法人アカウンタント養成講座 講師 高橋 泰源)